沿革
2010 JABEE の継続認定の審査があり、 翌年 5 月に 6 年間の継続認定を得た。
2005 平成 17 年度には、時間をかけて準備をしてきた情報工学科・情報科学専攻の教育プログラムが、日本技術者教育認定機構(JABEE)の審査を受け、翌年 5 月に JABEE 基 準を満たしたプログラムとして認定された。この年度より情報工学科の学生は第 3 学年に進級する時点で自分専用のノートパソコンを購入して授業に活用する新しい取り組みを始めた。
2004 この年度(平成 16 年度)から、全国 55 高専が一つ の独立行政法人(国立高等専門学校機構)の下にまとまることになり、教員(「教官」という呼び名も廃止された)の体系が大きく変わった。平野学教員(東芝)が採用された。
2003 平成 15 年 3 月に、学科創設時の教授は全員学校を去った。そして、同年 4 月に、早坂太一教官(豊橋技科大教官)が赴任した。
2002 情報工学科4年生の有志チームが、 ACM 国際大学対抗プログラミングコンテストに参加した。彼らはウェブ上で実施された国内予選を勝ち抜き、アジア予選金沢大会に駒を進めた。そして、全国およびアジアの強豪校が揃う中で、最終的に 33 チー ム中 17 位という成績を残すことができた。大学でいえば 1 年生にあたる学年のチームであり、予想外の大健闘であった。
1997 情報工学科の設立に尽力された野澤繁之教授が定年退官となり、平成 10 年 4 月 25 日に、 名鉄トヨタホテルにて退官記念パーティを催した。多くの卒業生がかけつけ、情報工学科の思い出を語り合い、楽しいひとときを過ごした。
1996 専攻科設置に伴う教官定員増のため、学科の教官は全員で 11 名になった。情報工学科も創設時のあわただしさが過ぎてようやく落ちついて研究ができる環境が整った。平成 6 年度から 8 年度にかけて、博士の学位を授与される教官が相次いだ。
1995 本校に専攻科が設置された。 情報工学科は一般学科の教官と連携して「情報科学専攻」(定員 4 名)を設けた。これ以降、SCS (Space Collaboration System, 衛星通信を用いた遠隔教育システム)を利用した新しい教育への実験的な取り組みなど、 様々な教育改革に取り組んだ。
1993 卒業研究が始まった。年度末に実施された第 1 回卒業研究発表会において、教官から「長年見てきた電気工学科 の発表に勝るとも劣らない出来栄えであった」という感想をいただき、無事に最初の卒業生を送り出した。
1991 木村勉助手(豊橋技科大大学院)を含む 3 名の教官が加わり、教官 8 名の体制となった。 情報工学科完成年度の平成 3 年には、2 名の教官を迎え、総計 10 名の教官を擁する一人前の学科となった。
1990 情報工学科のスタッフとして、新たに 3 名の教官(講師 1 名・助手 2 名) が採用された。仲野巧講師(富士通)、稲垣宏助手(トヨタ自動車)、安藤浩哉助手(名古屋大学大学院)である。
1989 情報工学科棟が完成し、10 月 25 日 に竣工式を迎えた。当日は、来賓として、豊橋技術科学大学の本多学長、名古屋工業大学の太田学長、豊田市の西山市長、市川前校長らを招待して記念式典・ テープカット・「はばたき」の像の除幕式が行われた。「はばたき」の像は市川前校長の寄付で作られた基金により学科前に建てられた記念碑であり、二科会会友の石川豊氏が設計を担当した。この像は「未来に羽ばたく情報工学科であれ!豊田高専であれ!」の願いをこめて「はばたき」 と命名された。
1989 設立 2 年目の昭和 63 年度には、二人目の専任教官 を迎え入れ、さらに、本校に採用されたばかりの佐々木宣孝技官が、情報工学科の担当として配属された。
1987 昭和 62 年 4 月、豊田高専の 5 番目の学科として 情報工学科の歴史が始まった。4 月 8 日の入学式で 情報工学科第 1 回生 45 名を受入れ、仮の教室として 現在のコモンルーム(5)(環境都市工学科棟 2 階)が 割り当てられた。
1987 国立学校設置法施行規則の一部を改正する省令(S.62年文部省令第10号)が公布され, 情報工学科が増設された。
1986 文部省に新学科設立要求を出す。設立の作業をすべて電気工学科の野澤繁之教官(名誉教授)が引き受けた。
1984 新学科設立の議論が本格化した。当時の情報工学科の定義は「ハードウェアに重点を置く」というものだった。
1982 市川眞人校長(当時)がコンピュータ教育を行うための新しい学科の構想を考えていた。